この本を読んでいて、なんかよくわかりませんがポツポツとイメージが浮かびました。 私はなんでこれはこうなんだろう?って興味を持ったら、知りたいなと弱く願っています。 そこで教えてくれる人がいるなら聞いてみて、納得いかない時は、「よくわからないなぁ」と言います。
相手が教えてくれたことを鵜呑みにして、知ったかぶりみたいな曖昧な状態でいるほど、次に同じように質問をしづらくなる気がするから。
私は知りたいと思ったことは知りたい。 教えてもらえるなら聞いてみたい。 納得いくまで調べたい。
そんなことも知らないのかよ!バカだな! そういう態度でいる集団の中で曖昧でいるより。 私と同じように知りたい、納得したいと願っている人に教えてみたい。 もし私の知っているこの感じで伝わるなら、私も伝えたい。
何かを知っていると思い込んでいる中で、知っていると曖昧でいるよりも 知らないから知りたいと、調べている時の方が進んでいる気がする。
私を変えてくれたように、私も誰かを変えなければいけない。 誰かを変えるべきなのかな?
カタルシス効果のように、相手の話を聞いてあげて相手は自分自身で気づき 変わっていけるのだから、よりそってあげればいいんじゃないのかな?
私は自分自身で遊びも手放してしまって、自分で自分を追い込んで奮い立たせて 自分が変化し、誰かを変化させようとしてきたけれど、その仮説と検証は予想とは違った。 自分で自分を恐怖で操作できると信じていた。
誰かが私に叱咤してくれるように、自分もそうすれば上手に誰かの言うことを上手に遂行できると信じていた。 けど、それは予想とは違った。
だから、今までうまくいっていたセオリーや常識を手放す必要があると知った。
ただ恐怖心で行き場をなくし、戦うか逃げるかの状況に持っていけば自分は戦える。 結果的によくわからないまま、内側から壊れていった。
人間ドッグくらい沢山検査しても体は健康だと診断された。 でも突然手が震えたり、吐き気がしたり、目が痛くなったり、今までにないことがバラバラに起こった。 そう、内側から壊れていくんだって知った。
気持ちが落ち着いて、うまくいく時も内側から外側の順番だと気づけた。
今までの考え方を手放す代わりに、内側から外側へと順番に丁寧に想いを込めてする。 それが新しいセオリーなのかも。